正義

 世界の経済情勢は、まさに戦乱の世を呈している。
 スペイン、ポルトガルが七つの海を席巻していたのは遠い昔。代わって覇権を握った大英帝国の威信はあっという間に薄れ、冷戦を勝ち抜いた新大陸米国が世界の主役の座に君臨している。だが、その米国も高い労働賃金による生産コストの上昇や金融ビジネス等マネーゲームの破綻などで国際競争力に陰りを見せているのも事実。いまや、同盟を固めた欧州・EUと、アジアの大国・中国を絡めた三強に、日本、韓国、ロシアと続き、インド、ブラジルが凄まじい勢いで追走する、そんな構図のように見える。
 そこで、互いの枠組みをどうつくって、どのように立振舞うことが国益を守ってゆくことになるのか。いまほど各国の政治家の手腕が問われる時はあるまい。

 我が国のように、狭い国土に資源の少ない小国が、大国に囲まれて生き残る方法は、古今東西たった一つ、外交手腕しかない。決して一国に附かず離れず、さりとて孤立せず、安心感と警戒感を同時に与え、時には屈することがあっても推し進めるべきところは間違っても引かない、そんなしたたかな外交。かつての戦国時代の真田安房守昌幸が、中国の歴史では中山国が、みな、同様の外交戦術で生き残りをかけた。(それでも中山国は楽毅ほどの人物がいても滅亡したのだが)

 横浜で開かれたAPEC(アジア太平洋経済協力会議)は、表向き成功裏に終了したように見える。しかし世論は「日本の戦略が全く見えなかった」という声が大勢を占めた。取りあえず中・ロと領土問題を取り上げることで面目を保ち、米国との深化を印象付けたかったであろう菅直人総理大臣。しかしその先に何を見据え、何を描いて会談に臨んだのかは定かでない。とにかくただ会うだけ会って握手をすれば外交だなんていうんじゃあ、幼稚過ぎて話にならない。そもそもメモなどに頼らず、相手の目を見据えて、笑顔の中にも引き締まった表情をにじませる、腹の据わった議長としての勇ましさを期待した方がいけなかったか。もっとも支持率が3割を割り込み、一連の政治責任を誰ひとり取らないこの国の政府と宰相に期待する国民はもういない。総理もそのことを知っているからこそ、自信のない薄笑いが精一杯のパフォーマンスだったんだろう。

 さて、尖閣問題。すでに経緯は皆さんご承知だと思うが、現時点ではユーチューブにビデオを投稿した海上保安官の処分は決まっていない。
 我が主人、衛藤晟一参議院議員は「そもそもこの問題の本質は、ビデオを政府が公開しなかったことへの疑問とその責任だ。この件はしっかりと追及してゆく。もしも彼が投稿しなければ、今後、公の場で事実関係が明らかにされることはなかったのかもしれない。そうなれば大変なことになっていた。あの映像に対してその後に中国は何かのリアクションを取ったのか? むしろ公開したことで、中国を含めた全世界に日本の正当性が認められ、それが日本の国益につながったんじゃあないのか。あのビデオは最初っから国家機密ではないだろうし、国家公務員法違反(守秘義務)というのはどうかな。ただ、職務上組織の一員としての責任はある。たとえどのような状況でも、組織の規律を違反したことは許されない。本人も十分分かったことでの義憤に駆られた確信犯なんだろうけど。処分はしなければならないのだろうが、難しいな」と、顔をしかめた。

 法律は何のためにあるのか。法によって人が生きていくのではなく、人が生きていくために法があるのなら、そこには人の心が存在するはずだ。堀部安兵衛武庸の高田馬場の決闘や忠臣蔵の赤穂浪士の討ち入りを、多くの日本人が涙して称賛するのは、裁きに対する理不尽さに対し、身を賭してまで貫いた不変の正義への思いに他ならない。
 今の世に大岡越前守忠相や遠山金四郎景元がいたならば、この事件をどのように裁き、一件落着させるのだろうか。

ペンの暴力

 さる10月15日付の朝日新聞のトップ記事を読んで驚いた。「臨床試験中のがん治療ワクチン 『患者が出血』伝えず 東大医科研、提供先に」という見出しが躍ったことだ。この著名の記事は、2008年に東京大学医科学研究所付属病院でがんペプチドワクチンの臨床試験を受けたすい臓がん患者が消化管から出血、この件は「重篤な有害事象」だと院内で報告されたものの、ワクチンを開発した医科学研究所は他の病院に伝えなかった―という内容で、普通に読めばこのワクチンは患者に出血を生じさせるほどの副作用があり、それを医科学研究所が隠ぺいしようとしたような印象を与えた。
 この報道が事実なら、事は重大だと思ったのだが、私にはどこかしら胡散臭い、捏造された記事のように感じられてならなかった。それは、世界の中村、あのオーダーメード医療という概念を定着させた東京大学医科学研究所・ヒトゲノム解析センター長の中村祐輔教授を知る人にとっては誰もが抱いた疑問だったに違いない。
 
 日本人の死亡原因の内、男性の二人に一人、女性の三人に一人は「がん」と言われ、年間34万人(平成19年)が死亡している。
 中村教授らが進めている日本発の最先端技術「がんペプチドワクチン療法」は、がん細胞を攻撃する免疫細胞が、がん細胞の表面にあるペプチド(タンパクの断面)を標的として攻撃する性質を利用、ペプチドをワクチンとして体内に大量に注射してがん細胞への攻撃を促進するという画期的なもので、外科治療、抗がん剤、放射線治療に次ぐ第四の治療法として世界的に期待されている。
 「がん」は、致死率の高さもさることながら、闘病中や治療に伴う苦痛、長期間にわたる治療による高額な医療費、再発の恐怖が襲う精神面など、多くの問題を抱える。それを、副作用もほとんどなく通常の生活を送りながら、ワクチン接種で治すことが出来たならというのが、この治療法なのだ。個体差やがんの種類によって適合するワクチンが違うことなど研究課題もまだ多く、現在は臨床研究でエビデンスを重ねている段階だが、この革新的療法が確立した時は医療の歴史が変わるとまで言われている。

 なぜ、私どもが中村先生を存じ上げているのかと言えば、我が主人、衛藤晟一参議院議員は、党がん対策議員連盟の事務局長を務め昨年、議連の総会に中村先生をお招きし「がんペプチドワクチン」の勉強会を開いていたからだ。その出会いから始まり、その後東大医科学研究所を視察、また度重なる説明を先生から伺い、個人的にも深い付き合いをさせていただいている。
 少ない研究費に、手弁当ともいえる苦労の中で研究を重ねる先生の真摯な姿勢に「何とか十分な研究費を付けて、国家プロジェクトに出来ないものか」と、当時与党の議員だった主人は苦慮していたことを覚えている。諸外国から支援の申し出が多く寄せられるなか、「何とか日の丸を付けたワクチンを作りたいんだ。それが私の夢だし、祖国に対する思いだ」といった先生の言葉は今でも忘れられない。

 先日、中村先生をはじめ医科学研究所から今回の件に関する資料と、関係書類が届いた。
 少々長くなるが一部を紹介させていただく。
 「2010年10月15日付朝日新聞の一面では、当研究所で開発した『がんワクチン』に関して付属病院で行った臨床研究中、2008年、膵臓がんの患者様に起きた消化管出血について、『「重篤な有害事象」と院内で報告されたのに、医科研が同種のペプチドを提供する他の病院に知らせていなかった』と報じられ、臨床試験の実施体制やその背景に様々な疑問を抱かせる記事となっている。
 しかしながら、この記事には、数多くの誤りが見られる。まず、この消化管出血は、膵臓がんの進行によるものと判断されており、適切な治療を受けて消化管出血は治癒している。また、付属病院で実施された臨床試験は、単施設で実施したものであり、他の大学病院等の臨床研究とは、ワクチンの種類、投与回数が異なっている。さらに、最も基本的な、ワクチン関係者の名称が異なっている。―中略
 この記事が出されて以降、本学には『がんワクチンで出血するのでしょうか?』という問い合わせが相次いでいる。また、標準治療を断念せざるを得なくなった患者様からは、『これで臨床試験が停止するのではないか』という心配の声も頂いている。このような記事を目にして不安を抱かれた、全国の患者様の動揺を心から憂える。
 そして、この記事は、日本の医学の発展のために、これまで真摯に取り組んできた、全国の医師、看護士、臨床試験コーディネーターらを大いに落胆させることも気がかりである。この記事は、先端医療の発展を踏みにじるものである。
 医科学研究所は2010年2月の取材依頼以降、副所長名で一度、所長名で二度、質問に対する真摯な回答を適宜行ってきた。その取材過程のなかで、記事の中で述べられている誤りについても、既に根拠を示して回答してきている。にもかかわらず、このような記事を、社内でいくつものチェックをすり抜けてトップニュースとして掲載する朝日新聞の見識には、大いに不審を抱かざるを得ない。
 果たして、この記事はいったいどのような目的で書かれたものであろうか?」
(東京大学医科学研究所所長・清水元治)
 「われわれは、『科学的立証をしつつがん難民に光を届ける』を合言葉に、全国の賛同して下さる研究者とともに、ペプチドワクチンの臨床研究を適切に推進してきました。はじめて人に投与する製剤の臨床試験については、既に経験が多数ある臨床試験とは異なり、特別な倫理的配慮が必要であると考えて、非常に慎重に進めてきました。患者さんと医療関係者の多大なご協力によって、すい臓がん、胆道がん、膀胱がん、食道がんのワクチンは薬事承認を目指して、数社の大手製薬会社とオンコセラピー社で治験を進めるところまで進んで来ています。
 しかしながら、当該編集委員・論説委員の悪意に満ちた記事は、がんワクチン療法に対してだけでなく、全国で行われている臨床研究・臨床試験にも大きなネガティブイメージを残しました。結果として、行き場の無くなった患者さんたちが、科学的根拠のない民間療法・自由診療へと流れ、患者さんとその家族の精神的にも経済的にも大きな負担をかけることになってしまうことは許せません。
 朝日新聞社は、科学的根拠に欠けている民間療法や自由診療については問題視せず、患者さんやその家族が苦しむことは容認するのでしょうか。私のところには、これまでに延べ数千人の治療法を失った患者さんや家族からの問い合わせがありました。がんペプチドワクチン臨床研究ネットワークの協力病院への問い合わせは、のべ一万を超えます。日本国中で日々希望なく暮らしている患者さんに少しでも生きる希望をと思い、臨床研究ネットワークの協力者と努力をしてきましたが、今回の記事に対しては激しい怒りを覚えます」
(中村祐輔教授)

 いずれ真実は明らかにされるだろうが、関係者の落胆は限りなく深い。
 それにしても、改めてマスメディアの正義とは何なのか考えさせられると同時に、ペンの暴力を痛感した出来事だ。