似て異なること

  自民党総裁選出馬に前向きな安倍晋三、石破茂両衆議院議員を招き領土、外交に関する公開勉強会が6日、衆院議員会館で開かれました。
 一部報道によれば、「両氏の政策には共通点も多く、現状の総裁選立候補予定者が乱立気味であることから将来の連携を模索した動きでは」との憶測が流れているようですが、我がオヤジ(衛藤晟一)はきっぱり否定しています。
 「どの陣営から流れているのか知らないが、政策に似通っているところがあるからといって戦う前から連携を模索する必要性が分からない。各候補ともこれから国家観、政策等を論じていくことによって違いがはっきりしてくる。淘汰されるなり離合集散するのはそれからの話だろう」

 オヤジは今回の勉強会の下準備として、両先生の過去の発言や著作を読みあさっていた。そのなかで、靖国問題、集団的自衛権の行使について石破先生の見解に大きな疑問を抱えていたようだ。それが報道でも紹介されている会場での本人の発言、「大局観があるのか」(日本経済新聞)、「石破先生はその時その時で発言を変えている」(産経新聞)に繋がっている。

 例えば、石破先生はご自身のサイトにこう記述されている。
 『私自身、右サイトからは左だと非難され、左サイトからは右だと非難される立場に居ますが「右にいると真ん中も左に見える、左にいると真ん中も右に見える」ということなのかもしれません。八月十五日が近付くと総理の靖国参拝についてコメントを求められることが多いのですが、もう一度改めて私の考えを述べておきます。国家のために命を捧げた行為がこの上なく尊く、国民すべてが感謝し、御霊の安らかならんことを祈るのは極めて当然のことと考えます。しかし、「先帝陛下がご親拝をとりやめられ、今上陛下もご親拝にならないことをどう受け止めるべきか」について、我々はもっと突き詰めて考えるべきではないかと思っています。日本国と兵士たちの約束は「いかなる兵士も靖国神社に祀られる」「天皇陛下が必ずご親拝下さる」の二点であったはずです。前者は一応果たされているものの、後者は昭和50年11月21日を最後にその後実現されておりません。総理大臣が参拝するか否かはこの約束とは本質的に全く関係のない話で、たとえ総理大臣であっても鳩山氏や菅氏に参拝して欲しいなどと英霊が望んでおられるとは私には到底思えません。畏れ多いことながら、御身心を拝察しながら陛下にご親拝いただける状況を作ることこそ、我々に課せられた課題なのだと思っております。「国家の命により戦地に赴き散華された兵士」と「明らかに勝てない戦争を、そうであると知りながら開始した立場に居た国家指導者」とは明らかに異なると考えており、八月十五日には地元の靖国神社に参拝することと致しております。総理大臣が参拝すべき、との所説の大半を読んだうえで申し上げておりますのでこの問題をこれ以上議論するつもりはありませんが、何人からの方からお尋ねをいただきましたので記した次第です』

 これを読んだオヤジは………?
 「石破先生らしく理路整然とした文章に思うが、基本的な所に疑問が残る。今日の平和の礎を築いた英霊に対し、今を生きる国家の最高指揮官が誠を捧げるのは当然のことで、それが「本質的な約束事とは違う」なんて言う屁理屈で否定されるべきものではないだろう。まして、鳩山、菅両氏の思想、人柄は別として、日本国の総理大臣として参拝されるべきだったし、それを喜ばない英霊などいらっしゃるはずがない。理由はどうであれ国家のために命を捧げた方々を、英霊になられてまでも差別する考えは、我々の保守の考えとは相いれないものがある」
 また、集団的自衛権の解釈にも差異が見られた。
 「安倍先生と石破先生は保守で政策が近い、という人が大勢いるようだけど両氏の発言をよくよく調べると本質的にはどうなのかな……」。