甲斐田さん逝く

 「今日(5月1日)、甲斐田が亡くなった」。
 携帯電話から聞こえるオヤジの声は、幾分震えているように思えた。
 甲斐田哲男さんは、我が事務所のOBだ。オヤジが初当選した平成2年、当初は松崎秀樹さん(現千葉県浦安市長)が第一秘書で事務所の切り盛りをしていたが、その後に千葉県議会議員選挙に出馬するため退所、その際に地元事務所を任されていた甲斐田さんが上京し筆頭秘書に就かれた。
 往時、私は歳の幾分食った新人で、オヤジに随行しながら車の運転をしていた。

 そのころの私はオヤジの住む高輪議員宿舎の一室を間借りしていた。(いまでは規律が五月蠅く許されないのだろう。ヒロ子夫人はご子息がまだ幼かったため、地元大分にお住まいだった)この頃は比較的やんわりしていて、いまではとても考えられないだろうが、部屋住みの秘書なんていうのも、けっこういたものだ。
 私は玄関脇の一室を使わせていただいていたが、部屋の壁中央に大きな日章旗を貼っていた。それは入口のガラス越しに透けて見えるので、「衛藤のところは威勢がいいな」と、同じ階の小泉純一郎先生にからかわれたのを、昨日のことのように思い出した。

 あのころは6時前に起床。新聞各紙の見出しに目をとおし、政治面を開いてダイニングテーブルの上に置いたら、続いて浴槽に湯を張る。(この頃の代議士は朝風呂に入っていた)洗濯に出すワイシャツを所定の場所に届け、オヤジを起こしたら駐車場に行き車を清掃する。それから所定の場所で待機するというのが日課だった。
 乗り込んでくるオヤジと1日のスケジュールを打ち合わせながら永田町の自民党本部へ向かう。オヤジが各部会を俳諧する中、私も一緒にもぐりこんで、朝食を失敬する。(いまでは秘書の朝飯なんて出ないらしい)オヤジの日程には昼食の時間がないため(酷い秘書だよな)当然こちらも食いっぱぐれることになるから、朝飯は何にもまして大イベントだった。
 昼間の日程が終了すると、夜交戦に。国会議員の夜の会合は頻繁で、ましてオヤジも若かったから帰りは殆どが午前様。宿舎に戻り明日(いや当日になっていた)の日程を確認し、会合場所を確かめ地図を開き(このころカーナビなどありはしない)それでもって1日が終了していた。まれに早く帰宅しても、そんなときはオプションで夜回りの記者さんに酒のつまみなども作ったものだが、そんな時は記者の皆さんを睨み付けながら、自分の運命を恨んだこともあった。

 そんな時いつでも甲斐田さんがやさしく(?)声をかけてくれた。
 大分の地理も、後援会の名簿も、秘書としても仕事もみんなみんな甲斐田さんが教えてくれた。
 毎日夜遅く帰っていると「大変だな。でも夜遊びなんて仕事じゃあないだろう。わし(自分のことをそう呼んでいた)が衛藤に言ってやる」と助け舟を出してくれたこともあった。   
 オヤジとは上野丘高、大分大と同級生の甲斐田さん。それでも普段は「代議士」と呼び、立場を弁えていたが、ここぞというときは親しみを込め「衛藤」と呼んでいた。
大酒飲みで、芋焼酎(白波)を好み、倒れるまで飲んだこともあった。(だから身体を壊したんだよ)
 秘書を退職した後も、オヤジの岳父が理事長を務めていた福祉施設で事務長として頑張っていた。
 癌だとは聞かされていたが、あまりに急で。
 大切な人ほど早く逝く。
 逝き過ぎた分、のんびりそちらで酒でも飲んでいてください。
 ご冥福をお祈りいたします。(秘書一同)