普通の国

  安倍内閣は1日、臨時閣議を開き集団的自衛権の行使を認めるために、憲法解釈を変える閣議決定をした。これからは各種法整備を進めてゆくことになるが、ようやくこの国も普通の国の議論ができるようになった。

 支援者の皆さんからも、いろいろなご意見をいただいた。
 「個別だろうが集団だろうが自衛権を行使するのに、何が問題なのか」
 「閣議決定だけすれば何でもできるようになるのか」
 「若者を戦場に送るのか」(いまだにこんなご意見があるのには驚いた)
 など心配する声も聞かれたが、「自国を守るための最小限度の行使なら当たり前だ」という意見が大勢を占めた。(総じて我が陣営の支援者は保守が多いため、若干の割引は必要かもしれないが)

 誰だって争い事は好まない。まして戦争で殺し合うことなんてとんでもない。しかし降りかかる火の粉(災い)はどうすればいいのか。話し合えば(外交は大切な手段だ)、神仏に祈れば(宗教戦争が何で起こるのか)、憲法に明記すれば(台風は来ないでくださいと明記すれば日本を避けて通過してくれるのか)それで私たちの暮らしは守られるのか。
 ようやっとこの国も、普通の国の認識を持ち始めたのではないか。

 今回の総理の決断を批判する声もある。だがこの激動する世界情勢のなか、特に海洋進出を企む中国、核保有を自称する北朝鮮を隣国にもつ東アジアの恒久平和が、日本の憲法を拝むだけで守られるのか。批判勢力にはその答えが見えない。

 かつて我がオヤジの郷里大分県には大友宗麟という戦国武士がいた。キリシタンであった宗麟は誰よりも争い事を嫌ったらしい。しかし結果は、皮肉なことに「争いのない国造り」を進めるためにあえて争う道を選ぶことになる。その心中はいかがなものであっただろうか。リーダーのやるせない孤独な決断は、いつの時代も変わらない。