マニフェスト

  地震、大雨、覚せい剤、そして総選挙。なんとも今年の夏は話題に事欠かない。それも、芳しくない事柄だけに気が滅入る。せめて総選挙はスカッとした結果を期待したいものだ。

 各政党のマニフェストが出揃った。
 イタリア語経由のManifesto(声明、宣言)が、英語において選挙公約の意味で使われるようになったのは、近代英国でのことらしい。何を、いつまでに、どれくらいやるのか、具体的な施策、実施期間、数値目標を明示するとともに、事後検証性を担保することで、有権者と候補者(政党等)との間の委任関係を明確化することが目的だ。
 我が国では1999年の統一地方選挙から作られ、その後2003年の公職選挙法の改正によってマニフェストの文章が選挙期間中に配布できるようになり、同年の総選挙から本格化、今ではすっかり定着してきた。

 とあるテレビ報道の世論調査によれば、8割の有権者がマニフェストに何らかの関心を持っているそうな。キャスターは「是非、皆さんの身近なテーマを比べてみて、投票に生かして下さい」とコメントを付け加えていた。
 しかし、それだけでは「木を見て森を見ず」にならないか。郵政選挙の教訓を国民は忘れてはいまい。
景気対策、子育て支援、年金等個々の政策にスポットが当たっているが、それはすべて日本国があってこそのもの。エネルギー、レアメタル、食料など資源に乏しい我が国が、世界の中で繁栄し続けるためには、外交、安全保障は欠かすことのできない大きな事柄だ。その点を重視すれば、民主党、社民党、共産党の示す国家観に疑問を抱くのは、私一車両だけだろうか。マニフェストこそ、総体的な我が国の将来像を示すべきもののように思う。

 他方、マニフェストそれだけが有権者の投票行動に結びつくわけではあるまい。政治家には政策は勿論、人間性だって問われるし、なんてったって情けもあれば誠意、情熱だって大切だ。
 そういえば本場英国でもここ数十年、マニフェストの内容が実際の投票行動にあまり影響を与えなくなったらしい。国民にとっての甘い政策のあれこれは、すぐに見透かされるのだろう。

 ところで、私はこの夏は暇している。
 我が主人、衛藤晟一参議院議員は選挙応援に奔走。地元大分を拠点に北海道、東北、関東、関西、四国と全国各地を転戦中だ。皆さんの住む街中や駅頭で、日焼けした我が主人を見かけたら、ぜひ声をかけていただきたい。「戦う政治家」衛藤晟一は、保守本流を訴え貫く気構えだ。
 私が次に主人と会うときは、国民の審判が下った後だ。