木を見て森を見ず

 「木を見て森を見ず」ということわざがある。細かいことばかりに気をとられていると、全体を見渡せなくなる、との意だ。政治に限らず、企業、スポーツそれぞれの分野でトップに立つものの心得として必要欠くべからざる教訓のひとつだ。

 ものには各論と総論が存在する。その調整が儘ならないところに現実とのギャップが生じる。
 鳩山由紀夫総理が、この5月をめどに決着を図ると公約した米軍・沖縄普天間飛行場の移設問題。自民党政権下で13年余りの歳月を費やし、やっと二国間協定として決着を見たこの問題を、すべて振り出しに戻したのだから、半年余りの時間で、おいそれと再決着を見るはずが無いことは誰の目にも明らかなことだ。
 総理の理想とする「基地無き安全保障」は、各論から言えば多くの国民から賛同を得るに違いない。我が主人、衛藤晟一参議院議員も、「独立国・日本に外国の軍事基地が存在することには違和感がある。ましてその大部分が沖縄という一部の地域の国民の負担のうえに存在していることは、決して正常な状況とはいえないだろう」と話し、総理の考えに同調しているようにも映る。しかし、それでは、「日本の安全保障はどうするのか」といった総論になると、これがかなり違った見解になる。

 ある報道の総理番記者によると、鳩山総理の掲げる日米安保の基本は「日米間を対等な関係とし深化させる」というものらしい。だが、その中身は「日本に存在する米軍の基地は、米国の極東対策には無くてはならない重要なもので、ならばある程度の日本の意見を聞き入れ、それを踏まえて米国は妥協点を見つけるのではないか」といった、甘い考えの節が見え隠れするというのだ。
 これに対し我が主人はこんな疑問を呈した。
 「米軍が日本領土から撤退した場合の、我が国の安全保障はどうするのか。この議論を避けてこの問題を語ることは出来ない。集団的自衛権を認めず、自衛隊の活動も法解釈によって変わり、そもそも一国を守る自衛力を持ち合わせているとは思えない我が国。つまり米国に寄りかかったままの現状で、基地が撤去した場合に困るのは、本当に米国なのだろうか。憲法を改正し、真の独立国としての自衛力をもって、初めて平和に向けての対等な日米関係が構築できるはず。そのときまでは、日本の国土と国民を守る現実的対応として日米安保は無くてはならない。そのことを政治家は真摯に国民に説明をし、厳しい対応でもお願いしなければならないはずだ」。
 毎年軍事力を増強し、艦艇の沖縄近海通過など、挑発とも思える行為を繰り返す大国・中国。核開発はじめ原因不明の艦船撃沈で、緊張感が高まっている朝鮮半島情勢。日本エネルギーの生命線ともいえる台湾海峡をにらんだ中台関係。どれもが脅威で、なおかつ正義という言葉の価値観が互いに違う東アジアの中で、その平和を先導してゆく我が国が、非武装中立などという夢物語を描いているだけでは、国が滅んでしまいかねない。

 いまや国民生活第一と嘯いた民主党は、政治とカネの問題で代表されるように、民意をまったく無視した小沢一郎幹事長独裁政党になってしまった。何があっても責任など一切取らず、秘書やマスコミなど他人に押しつけ居直る政治家ばかりが目に付く。また、そのことを当然のように擁護する百数十人の取り巻きにいたっては、裸の王様というよりも、まるでカルト教団の奇行にさえ見えてくる。

 さあ、参議院選挙が近い。ここは政治の不安定さを嘆くより、国益のために、なんとしても民主党を殲滅しなければならない。そのためには小異を捨てて大同につく勇気と覚悟が必要だ。野党は、ちまちま分裂したり、党内で争ったりしている場合ではない。祖国のため、国民のために命を賭してこそ国会議員の存在があるのだから。